Columm

初心にかえり、さらなる真実の飛躍を

今本博健  


 早いもので、京都大学防災研究所を停年退官してから、2年余りが過ぎた。昨日のようでもあれば、はるか昔と感じるときもある。辞めれば現場に口出しすべきでないとも思うが、竹門さんから防災研究所ニューズレターへの投稿を依頼されたので、外からみて感じたことを取りまとめてみた。
 まずは、「21世紀COEプログラム」についてである。昨年度から優れた研究拠点に予算を重点配分するプログラムが始まり、マスコミはその採択件数の多さが大学あるいは部局の格付けであるかのように報じている。採択に一喜一憂する関係者を見るにつけ、河田惠昭教授を研究代表者とする「災害学理の究明と防災学の構築」が初年度に採択されたことは価値あることであり、関係者の努力に心から敬意を表したい。
 しかし、採択されただけで喜んでいてはいけない。日本学術振興会のホームページによると、採択理由は、「創設以来、日本の防災・震災研究の拠点として実績があり、かつ数年前の改組により、拠点として成果のあがる可能性も大きいと評価できる。社会の将来の変化に対応しながら、新しい防災学の構築に向けての、いっそうの取組みが期待できる」とされている。なんのことはない。防災研究所の過去の活動が採択の大きな理由であり、「期待できる」のは、「災害学理の究明」や「防災学の構築」ではなく、「いっそうの取組み」である。他の採択理由に見られる「期待する」、「評価した」、「注目に値する」といった表現と比べると、「期待できる」はいかにも平凡で、「採択するから、しっかりやれよ」といった熱意が伝わってこない。

 それでも選ばれたことに感謝せねばなるまい。「いっそうの取組みが期待できる」と、それほど期待されていなくても、「いっそうの取組み」だけで終わっていいはずがない。一つでも新たな災害の学理を明らかにし、「成果のあがる可能性」を秘めていたことを実証するべきである。また、先人の遺産に頼らない第2弾、第3弾の採択があってこそ、はじめて研究所の未来が開けるのである。

 もう一つ気がかりなことは、「デスクワークが中心で、観測や実験を疎かにしていないか」、「研究が言葉遊びになっていないか」ということである。
 大学法人化を目前にして中期目標や中期計画づくりに翻弄されていることは理解できる。各種の委員会や研究打合せに忙しいこともよく理解できる。それにしても、教官諸君は不在が多く、観測や実験で姿を見かけることが少なすぎはしないか。

 防災研究所は、創設以来、苦難を乗り越えて全国各地に観測所・実験所を設置し、教官自らが先頭に立って観測・実験研究を行ってきた。情報技術の進歩により観測・実験データがLIVEで捉えられるようになったとはいえ、大地や風や水が必死に語りかける形相や言葉を現地で直接見聞せずして、「自然の摂理」を見抜けるだろうか。防災研究所の原点は京都大学の学風でもある「現地主義」の実践であったことを忘れてはいないか。
 研究室に閉じこもってする研究ならば防災研究所以外でもできる。観測所・実験所から教官を引上げ、研究施設の管理を技官にまかすことが多くなっているが、教官と技官が協力して観測・実験を行ってこそ、意義あるデータが得られるのではないか。宇治地区に教官が集中して常駐するようになってから、どうも覇気が失われつつあるような気がするのは錯覚だろうか。
 桜島火山観測所を見よ。複数の教官と技官が常駐するそこでは、いまも設置時の情熱を脈々と受け継ぎ、着々と研究成果を挙げているではないか。改組で肥満した部門を再解体してでも、すべての観測所・実験所を桜島並みにすることは、十分検討に値すると思うが、どうだろうか。
 初心にかえり、観測・実験研究を重視し、さらなる真実の飛躍をされんことを心から「期待している」。