失われた神々の国・メキシコ

地震予知研究センター 澁谷拓郎


メキシコ国立自治大学のキャンパスでひときわ目立つ中央図書館。壁画のモザイク壁画には、雨の神トラロックや農耕のケツァルコアトルなどが描かれ、アテスカ文明の世界観を曼陀羅のように表している。
 メキシコ国立自治大学・地球物理研究所・地震学講座主任のクリシュナ・シン教授と、平成4年3月に防災研究所を退官されJICAの専門官として同講座に在籍しておられる三雲健教授に呼ばれ、5月6日から27日までの3週間、メキシコティーにあるメキシコ国立自治大学で地殻構造に関する研究を行った。
 メキシコ国内に展開されている広帯域地震観測点の地震波形のレシーバ関数解析を行い、観測点下の地殻の地震波速度構造を求め、震源過程のモデリングや強震動予測のための基礎的データを作成するのが目的である。
 メキシコシティーは標高2200メートルの高地にある人口2000万の大都市である。 メキシコに入る前、飛行機の乗り継ぎの関係でサンフランシスコで一泊したため、時差に悩むことはなかったが、それでも最初の2、3日間頭がボーとしていたのは、標高のせいではなかったかと思う。
 メキシコシティーは非常に大きな街で人も車も非常に多い。道路は広く、2〜4車線で、ほとんどが一方通行である。フォルクス・ワーゲンの‘かぶと虫’が多いのにはびっくりした。タクシーはほとんどが‘かぶと虫’で、助手席が取り払われていて、乗り降りしやすくなっている。自動車の運転マナーはおせじにも良いとは言えない。方向指示なしの車線変更による割り込みは日常茶飯事であるし、赤信号も「法規ではなく助言である」ということらしい。
 英語がほとんど通じないことにも面食らった。英語が通じるのは、研究所のスタッフとホテルのフロントぐらいなものである。研究所やホテルから一歩外へ出るとそこはスペイン語しか通じない世界である。街の中にも教会のカテドラルや荘園造りの邸宅などスペイン風の建築物が目に付く。生活のパターンもスペイン的で、午前中は午後2時まで仕事をし、昼食を3〜4時までゆっくりと取る。現在のメキシコに固有のものが残っているとすれば、それはタコスに代表されるメキシカンの食文化ではないだろうか。
 1519年、エルナン・コルテスの率いるスペイン軍に占領される前のメキシコには、紀元前10世紀頃からオルメカ、マヤ、サポテカ、トルテカ、アステカなどの古代文明が存在した。それらは重厚長大かつ精緻な石の建築技術と絵文字とゼロの概念を有する数学を発展させた。大地の神コアトリクエ、太陽の神ウィツィロポチトリ、月の女神コヨルシャウキ、雨の神トラロック、農耕の神ケツァルコアトル、など多数の神々が存在した。さらに生け贄の風習を有しており、毎日多くの人が生きたまま心臓を抜かれた。これは、人間の新鮮な血を太陽の神に捧げないと、太陽が活力を失って昇って来なくなると信じられていたためである。
 メキシコシティーの北東約50kmのところに、紀元前から栄えたテオティワカンという古代都市の遺跡がある。紀元4〜6世紀にもっとも繁栄し、そのときの人口が20万人と推定されている。同時代のヨーロッパ最大の都市コンスタンチノーブルの人口が5万人ということであるから、テオティワカンがいかに大きな都市であったかがわかる。この遺跡には、太陽と月の二つの巨大なピラミッドがある。写真は、太陽のピラミッドから月のピラミッドを背景に撮ったものである。
 メキシコシティーの中心部にもテンプル・マイヨールという遺跡がある。この遺跡は、アステカ帝国最後の都市テノチティトランの中央神殿跡と考えられている。当時のメキシコ盆地にはテスココという大きな湖があり、テノチティトランはその湖に浮かぶ巨大な水上都市であった。湖は埋め立てられ、その軟弱な地盤の上に現在のメキシコシティーが築かれている。
 1985年9月メキシコの太平洋岸で発生したミチョワカン地震では、500km以上離れたメキシコシティーにおいてビルの倒壊などにより死者を出すような被害が発生した。これはメキシコ盆地の軟弱な地盤が地震動を増幅したためであると考えられている。
 メキシコの太平洋岸では、リベラプレートとココスプレートがメキシコの下に沈み込んでいて、これに伴い、マグニチュード7〜8クラスの地震が発生する。1960年半ばからのマグニチュード7以上の地震の震源域をプロットすると、まだ地震が発生していない空白域が存在することがわかる。その代表的なものとして、北部のハリスコギャップと中部のゲレロギャップを挙げることができる。1995年の9月と10月にそれぞれゲレロ地域とハリスコ地域において、マグニチュード7.4と8.0の地震が発生したが、どちらの地域においても空白域はまだ埋め尽くされずに残っている。
 メキシコには、メキシコ横断火山帯が中央部をほぼ東西に走っており、メキシコシティーはその中に位置している。市内のいたるところで、2000年前の噴火の際に噴出した溶岩を見ることができる。大学キャンパスの少し南にも、このとき溶岩に埋没してしまった遺跡がある。メキシコシティーを覆った溶岩の厚さは、10〜30メートルと言われている。
 また、市の東約60kmにポポカテペトルという活火山があり、1994年12月に火山灰を降らせる噴火により活動を再開した。その前の噴火は1921年である。この500年間に17回の噴火をしている。私が滞在している最中にも活発化の兆しが見られるということで、緊急の会議が開かれた。日本における噴火予知連絡会のようなものである。 三雲先生もその会議に出席された。アラートレベルを引き上げるかどうかが議論されたが、いましばらく地震活動のモニタリング等により火山活動の推移を見守るということで、アラートレベルの引き上げは見送られた。後日、ホテルで読んだ英字新聞に、一部のテレビや新聞等でポポカテペトル火山は向こう数年間は噴火しないと報じられたが、そのような報道には科学的根拠がないと国立防災センターの担当者が否定している記事を見かけた。
 
 今回の在外研究において、渡航費は防災研究協会から援助していただきました。また、メキシコシティー滞在中は、三雲先生ご夫妻にいろいろな面において大変お世話になりました。ここに記して感謝の意を表します。